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【エッセイ11】木造アパートのこと

写真と本文は関係ありません


木造の古いアパートに心惹かれる。

私が小学校の1年から20歳になるまで過ごした家?は、木造モルタル塗りの
2階建てアパートだった。そのためなのか、どうにも古い木造のアパートが
気になる。

近頃はデジカメを携行して、見つけると撮影したりしている。いかにも
懐古趣味の極みであって、初老になった人間のセンチメンタル、といった
趣だ。

そのアパートはありふれた名前だった。どうしてこういう名前が多かったのか
知る由はないが「葵荘」という。最近はあまり耳にしないかもしれないが、
所謂「木造モルタル塗り」というやつだ。さて、モルタルとは?まぁ、土と
コンクリートのあいのこみたいな、おそらく当時の定番の外壁仕上げだったの
だろう、それだった。(そういえば近くで建つ家は壁の中に竹を藁の紐で束ねて、
さらに黄土色の藁が混ざり込んだ泥のような土で固めたものが多かった。所謂
「真壁式」という工法だ。それなりに理にかなった工法だと思ったが、もう
すっかり姿を消してしまった。)

昭和30年代のことだから、いかに名古屋の住宅地といえども、その頃は
まだまだ自然が当たり前のように、そしてもちろん、いくらでもあった。
まさしく隔世の感…。

アパートの前には芋畑が広がっていた。サツマイモの畑だったが、そのサツマイモは
いかにも細くて蒸して食べたがあまりおいしくはなかった。但し、この芋畑には
やたらとコオロギがいた。ほとんどがまるまると太ったエンマコオロギで、メスは
大きなおなかをしていて、尻に針を付けていた。この針を土の中?に差し入れて卵を
産むのだろう、と思っていた。

アパートの北には1軒民家があったが、その民家のさらに北側には小川があった。
この小川は名古屋大学の中にあった池からの流れと山崎川が合流したもので、
川幅は3メートルくらいだった。両岸は丸太で支えられていて、川に降りようと
思えば簡単に降りることができた。さしずめ地面からは1,5メートルほど下がった
ところが川面だった。深さはわずかなものでせいぜい30センチほどだった。

その小川にも多くの生きものがいた。正しい名前は知らないが、羽黒トンボと
呼んでいたトンボをよくつかまえた。いかにも繊細な感じのトンボで、華奢な
胴体を丸くして水面で踊るように産卵していた。  

しかし、その川でもっともよく捕まえたものはザリガニだった。赤い色をした
アメリカザリガニ。わたしたちは「マッカーサー」と呼んでいた。身体が赤いのと
アメリカから来たことを引っかけて、こういう呼び名になったのだろう。川の
ザリガニは危機を察知すると、泥を巻き上げて煙幕を張るようにして後ずさりした。
こいつをタモですくうか手でつかむわけだ。近所にはため池のような小さな池も
あって、ここにいるザリガニは川で捕まえてきたザリガニの身を餌にした。
ザリガニの身をたこ糸に縛り付けて、またザリガニを釣るわけだ。

その小さな池は梅雨時になると、アカガエルがいっぱい繁殖した。きれいな色を
したカエルで、小さなアマガエルの緑色もきれいだったが、アカガエルのオレンジ
がかった色も美しかった。もちろんヒキガエルやトノサマガエルもいっぱいいた。
冬から初春にかけて、林の中の水たまりにはそういうカエルの卵がゆらゆらしていた。
縄のような形状で外皮はゼリー状になっていて、小さな丸い卵が見えていた。
いつも遊びに行く林には多くの命が、絶え間なく営々と本能に従って与えられた
「なすべきこと」を行っていた。

私が暮らしていたアパートは、そういう息吹や営みを発見に行くための言わば「基地」
のようなものだった。窓枠に腰掛けて幾度、昼の、そして、夜の空を見上げたことだろう。
猛々しく育った夏の雲には希望を重ねた。肌寒くなった秋の夜空には悲しみを重ねた。
物言わぬ自然のさまざまは、抗うことのできない流れの中で、どう生きることが
幸せなのかを私に示唆してくれた。