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【変わった子ども】

私は母親に育てられた。実の父親は私が小学校に上がる前に死んでいる。母親の言葉を信じるのであれば、酒場で倒れて病院で死んだ、という非常にシンプルきわまりない最期である。酒を浴びるように飲んだから肝臓が悪かったんだ、と母親は説明してくれた。よって、私には酒なんぞは諸悪の根源であるからして、絶対に口にしてはいけないモノだと教え込んできた。だから私は教えを守り、20代中頃まで自ら進んで酒を飲むことはなかった。

というわけで私は小学校1年の時から、所謂「母子家庭」という環境で育ってきた。しかも母親は水商売だったので、夕方からはたった一人でずうっと夜を過ごさねばいけないという条件になってしまった。さらに最初の頃はテレビさえなかった。それでも木造モルタル2階建て、ふた間しかないアパートはすこぶる居心地のいい場所だった。テレビが来てからはすっかりテレビに夢中になってしまったが、来る前には窓に腰掛けて眠くなるまで夜の空を見て過ごしたりしていた。

そんな暮らしをしていたせいか、私は変わった子どもであった。それは小学校4年生の時、母親が階段で転んで腕の骨を折ってしまった。何だかその骨折は大変だったらしく、1カ月は入院しなくてはいけなくなってしまった。母親は親戚の家に世話になり、そこから小学校へ通うようにと言った。小学校へは市電とバスで3〜40分くらいで通える場所に親戚の家はあった。ところが私は人の世話になることが大嫌いな変わり者の子どもであったので、それをきっぱりと断り、自分で起きて小学校に通うと伝えた。当時から本を読むことがが大好きだった私は「家なき子」とか「家なき少女」「15少年漂流記」「ロビンソン漂流記」など、自分だけで何とか生活してしまうことに、かなりの憧れを持っていた。(のだと思う)

結局、親戚(のおばさん)は週に1回、洗濯物を取りに(持って)来てくれることになり、私は土曜日の日に市電に乗って病院まで行き1泊してお金を(夕食代)もらって日曜にアパートに帰ることになった。もちろん、その取り決めをした時には誰もが、私一人で朝起きて生活できるなどとは思っていなかった。第一、その頃の私は目覚まし時計のセットの仕方を知らなかった。けれど、あに図らんや、一度だけ遅刻しそうになったことはあったが、私は毎日小学校に通った。当時、東京オリンピック開催の直前で、毎朝「史上最大のクイズ」という番組がオンエアされており、その番組が始まったらアパートを出ることにしていたと覚えている。

そんな暮らしが始まって1週間ほど経った朝礼の時、担任の水野先生が私に近づいてきてこう言った。「森君、キミ、今一人で暮らしているんだって…?」私は自分が当たり前のことをしているつもりだったので、変なことを聞く先生だなぁと思いながら「はい、そうですけど…」と答えた。水野先生は今でも忘れられないけれど、心底驚いたという顔をしていた。しかしその質問には、私の
方が驚いてしまい先生に尋ねた。「先生、どうして知ってんの?」先生は「いや、親戚の方が学校に見えて、森健は毎日学校に来ていますでしょうか?と聞かれたので、ええ、来ていますが何故ですか?と尋ねたら、あの子は今、一人で暮らしているんです、と言われたから…」と言った。

夕食は近所のお好み焼き屋さんに行ったり、お寿司屋さんが出前で巻き寿司とかを届けてくれた。当時巻き寿司は100円くらいだったと思うが、そこのお寿司屋さん(勝寿司という名前だった)は、出前に来てくれた時に「坊や、どうして1人前なの?」と聞かれたので、事情を説明したら「坊や、いつだって出前するし、お金が無くてもいいから遠慮しないで電話しておいで」って言ってくれた。そのことをお礼に行かなくてはと思っているうちに、とうとうそのお寿司屋さんはなくなってしまった。それが悔やまれて仕方ない。

あの頃から、きっと私は自分でも気づかないうちに他の人とは違う「ものの見方」をしてきたのかも知れない。それはいいことであったのか、そうではなかったのか…。子どもが一人きりで夜を迎えることは、かなりのプレッシャーだった。母親が外から鍵をかける時の音は悲しい音だった。何せ7歳だったので、今思えば恥ずかしいが、かなり泣き叫んだことは覚えている。以来、聞き入れてもらえない要求をする無意味さを知った。だがしかし、親戚のおばさんやお寿司屋さんが教えてくれた人情は今でも心に残っている。

あれから40年以上経って、私は大学で学生たちの前に立っている。その学生たちに何が大切なのか、ということをどうしたら感じてもらえるのだろうか…。そんなことを考えることそのものが、何だかオヤジになっているのかも知れない。「変わった子ども」だと思われていた私は、何だか幸せであったように思う。今の私は、きっと普通のオヤジだ。