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【エッセイ2】大森先生のこと

高校1年・学校帰り


大森先生は、私の通っていた高校ではおっかない先生として有名だった。
先ず、顔が厳つくて黒い。もちろん担当していた科は体育だ。そして、
ラグビー部の監督をしながら、生活指導部の先生も兼任していた。

私の高校時代は今から50年近くも前の話だから、1970年頃の
ことだ。ちょうど70年安保闘争の真っ盛りに高校1年生だった。新聞部に
入った私は、訳も分からず名古屋の白川公園に連れて行かれて、仲間と
いっしょに名古屋駅までデモ行進をさせられた。「安保、反対!沖縄、返せ!」
と叫びながら歩いた。

学校に行く途中、生徒も先生もそういった内容のビラを配っていた。学校に
着くと、机の中にも同じようにビラが突っ込んであった。不思議な高揚感が
あった。進学校であった中学では昼休みになると、ひなたぼっこを兼ねて
多くの友人が単語帳を開いている、そんな環境から一転して偏差値の低い
その工業高校に入って意気消沈していた私にとって、学生運動?はインテリ
ジェンスを感じさせてくれるものであった。

高校に入学するまで、実は私は多くの人たちが出身校によってその後の
評価に影響を受けるということに全く気が付いていなかった。もちろん、
勉強が出来る人とそうでない人がいることは当たり前だが、それがそれほど
までに大切なことであることに気が付いていなかった。

という私は学歴を尊重している。青春時代の貴重な時間を受験勉強にあてる
ことによって、あるいは持ち前の才能を発揮して難関大学に入学、卒業された
方には大いに敬意を表する。しかし、それは人間性の一部においてのことで
あって、人格や知性とは別物だ。

しかし、現実はそうではなかった。進学校の中学ではごく普通の成績であった
私は(まさしく内申書の成績も所謂オール3であったため)あまり勉強はでき
ないが、それほどの劣等感も持たないまま高校に行った。改めて考えてみれば、
おかしい、と感じていたことはいくつかあった。中学時代でさえ、国語と体育は
悪くても4、学期によっては5だろうと思っていたが、意外な生徒がオール5
になっていた。トップ校への進学を狙うためには学校も配慮?するのだろうか?

話が脱線してしまった。高校時代のことに話を戻そう。ま、とにもかくにも
入学した高校の世間的なポジションを知って、いきなり劣等感というやつに
苛まれて、厭世観に満ちたまま過ごす羽目になった私は授業もさぼりがちに
なっていった。そして以前から大好きであったロックやジャズを聴かせてくれる
店に入り浸りになっていった。そして、髪をどんどん伸ばしていった。

やがて私の髪は吉田拓郎の曲ではないが、肩まで届くほどの長さになっていた。
そしていよいよ大森先生が登場する。最初に書いたように大森先生は生活指導部に
いた。ところで当然、生活指導部には他の先生もいる。先生は全員が体育の担当
だったと覚えている。その一人に同じようにラグビー部のコーチとして赴任して
きたO先生がいた。

O先生は日体大を卒業したばかりで、私たちとそれほど年齢も変わらない教師で
あったのだが、十分に悪そうなタイプで、ま、言うなれば不良っぽい感じの
人だった。(断っておくが、私はこの手のタイプは決して嫌いではない)その
O先生に、私は校則違反でしょっちゅう捕まることになった。

髪は肩まで。ズボンは黒いジーパン。シャツはポロシャツ。冬服ならまだしも、
夏服の場合はまるっきり私服だ。こんなのが目の前を歩いていたら、生活指導部
としてのメンツが立たない!即刻逮捕は当たり前のことだ。いかにも元ヤンキー
のO先生はかなりドスの利いた声で「おい、ちょっと来い」と私を先ずは声で
威嚇。「指導部の部屋に行こうじゃないか」と連行していく。

その部屋に大森先生がいた。前から見かけてはいたが、担任でもなかったし、
体育の授業も他の先生だったので、面と向かって話すことは初めてだった。
「何で、こんなかっこしてんだ?」私をぎろっと見すえて大森先生は言った。

私は言い訳をした。今考えれば、きっと道理も何もあったもんじゃない、訳の
わからない言い訳であったと思う。言い訳の一部は覚えている。自分の服装は
校則に違反しているだろう。しかし、校内を土足で歩くようなことはしていない。
つまり、私は自分自身でいろいろと考えて「いいこと、悪いこと」を決めて
いる、というようなことだ。

大森先生は、仕方ねぇなこいつは、と思ったことだろう。馬鹿みたいに幼稚な
言い訳をする高校1年生。しかし返ってきた言葉は想像もしなかったような
言葉だった。大森先生は、私の顔をまじまじとのぞきこみながらこう言った。
「そうか、わかった。もういいから行っていいぞ」それからそう言った最後に、
にやっと笑った。とてつもなく怖い顔が信じられないくらい優しい顔になって
いた。

狐につままれたような気分とはあのことだ。O先生は私の髪を切るための
はさみまで用意してことの成り行きを見守っていたのに、そのはさみは
使われることなく机の中にしまわれた。おまけに弾劾されるべき校則違反
バリバリの生徒は無罪放免。

以来、私は大森先生が大好きになった。校内で見かけると、どんなに遠くでも
「大森先生〜!」と大声で呼んで走り寄っていった。周りの連中はいつも
信じられない、という顔でそんな私を見ていた。大森先生も他の生徒とは
違って自分を怖がらない、むしろなついてくる私が面白かったのだろう。
ことのほか可愛がってくれた。

私がアルバイトで新聞配達をしていることを知った大森先生は、自分の車に
私を乗せてよく駅まで送ってくれた。少しでも余裕を持って販売店に行ける
ように。「どうだ、元気にしてるか?」先生もまた、私を見かけるといつも
声を掛けてくれた。高校を卒業した後も年賀状は送っていたし、ラグビーの
試合などでお会いしたりしていた。

ある時、喫茶店で大森先生といっしょにコーヒーを飲みながら「高校時代
の恩師と呼べるのは大森先生だけです」と、私が言ったら「いやぁ、そう
言われると本当にうれしいなぁ」と笑ってくれた。前から言おうと思っていた
その言葉を伝えたのは、今、言っておかなくてはと思ったからだ。
なぜなら、その時の大森先生は何となく体調が思わしくなさそうだったからだ…。

そのことを伝えた2〜3年ほど前から、大森先生から年賀状が来ていないことに
気が付いていた。でも、やはりそのことを確認することは勇気のいることだった。
あえて電話をしなかったのは、その勇気がなかったためだ。

意を決して数日前、私は大森先生の家に電話をした。先生は、やはり亡くなって
いた…。奥さんは私からの電話にお礼を述べられた後に「不思議なことに、昨日も
同じように高校の卒業生から電話をもらったんです」「その方も本当にいい
先生だった、と言ってくださって…」と言われた。

私には尊敬できる恩師が、かつてひとりだけいた。その方の名前は「大森昭典」
先生だ。