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【代理店時代−9】

バキューン


アサヒドーカメラのCMがそれなり
に反響があったことで、私はCM制作
チームに配置換えになりました。

と言っても、そのチームはそれまで
ありませんでしたから、新たにできた
のです。

それまで担当していたグラフィック
関連のクライアントからは一部の
重点クライアント以外を除いて外れる
ことになりました。

(その頃の話は前にも書きましたが)

CMチームは私を含めて3人でした。

それ以来、すべてのCM企画は社内で
行うことになりました。

また重点クライアントからも順調に
仕事を受注できるようになりました。

翌年の4月、私は課長代理を経ること
なく、課長に飛び昇進しました。

7歳年上の人が同格となり、年齢が
2歳上の人は部下になりました。

そう言えばこんなこともありました。

東京支社(当時)の会議に出席して
名古屋に戻ってきたら、私の部下に
なってしまったKの態度がおか
しい…。

とにかく私の意見に反対する。(笑)

どうやら東京で行われた会議で、
私がKのことを悪く言っていた、
という電話がかかってきたと。

(直属の部下のK君が教えてくれま
した)

それを受けたのは、ナルシストのA。

ま、そのAこそ7歳年上で私と同じ
役職の人物ですが。

かけた人間は東京支社のN。

私は名古屋の状況を聞かれたので、
(センスはいいのに)仕事に身が入ら
ないKがもっと頑張ってくれたら
いいと思う、というようなことを
発言したように覚えています。

東京のNは私がKの上司になって
いたことを知らなかった。

東京のNから名古屋のAへ電話が
入り、その内容をAがKに伝えた。

臍を曲げたKは、拗ねてしまった。

出世など一ミリも興味はない、と
いうようなタイプでほぼ仕事をして
いなかったのに…。

そんなこともあって、その頃から
フリーになることを考えていました。

CMチームができてから1年ほど
経った頃、私は会社にその旨を伝え
ました。

看板が無くなった時、自分に仕事を
回しくれる代理店や会社はあるのだ
ろうか?

そんなことが知りたくなってきたこと、
そしてクリエーターはいつかフリーに
なるものだと考えていたからです。

ところが会社からは、まだ私の後釜に
なる人材が見つかっていないから、と
いう理由で辞めるのを待って欲しい、
と言われました。

そんなこんなでなかなか人材は見つ
からず「辞めたい」と言ってから、
ほぼ1年が経ってしまいました。

(そしてついに東京の代理店から、
新東に転職するCDが見つかりま
した!)

1990年2月いっぱいで会社を退職
した私は、3月中を休暇にして、
4月1日からフリーとして仕事を
始めようと思っていました。

報告をするためにD社のEさんに
ご挨拶に行きました。

するとこんなことを言われました。

「うちに来ないか?」

D社へ挨拶をしに行ったのは、
挨拶はもちろんですが、フリーに
なったので仕事を回してもらえ
ないか、という魂胆もあっての
ことでした。

ところがEさん(CD)は、これ
からも仕事でバッティングするする
かもしれない私には仕事は出せない。

D社の仕事をするなら入社するしか
ない、と。

でもいくら考えても、D社の名刺を
持っている自分は想像もできません
でした。

また、エリートばかりの中に高卒の
私が入っても、あまり溶け込めない
とも思いました。

「では御社の仕事は諦めます!」

そう答えて、いままでの作品を
両手に抱えて帰ったことを覚えて
います。

1990年4月。

私はフリーになりました。