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【エッセイ14】言わなかった話

本文と写真は関係ありません


20年ほど前、ある女性がまだ40代で亡くなった。癌で亡くなった
と聞いた。私は、友人を通してそのことを知った。彼女にはお子さん
がひとりいて、まだ中学生くらいだったように思う。

残されたご主人とお子さんは随分と悲嘆に暮れたようだ。

その女性がまだ二十歳くらいだった頃、付き合っていた男性がいた。
それが私の友人である。快活な男で、みんなに好かれていた。ただ、
高校中退で定職を持たず、いつもぶらぶらしているように見えた。

行きつけのバーで会うと、ミュージシャンになるという夢をとうとうと語っていた。
そんな彼に彼女は惚れていた。やがて彼女は彼との結婚を意識し始める。
無論、彼にはそんな気はない。バイトで食いつなぐような生活をしていた
彼に「家庭を持つ」などということは想像もしないことだったからだ。

ふたりがバーのカウンターに座り、沈黙を続けているのを見る度、
私は居心地が悪くなり先に店を出た。

やがて彼は東京のライブハウスとの契約がまとまり、箱バンドのベース
担当としてミュージシャンデビューを果たすことが決まる。当然、彼女は
いっしょに行きたい、と彼に伝える。その時、彼女は大学4年生だった。

彼はその時「一瞬だけだけど結婚を考えた」。と後で私に述懐した。だが
それはある一言で消滅した。彼女の妹が何気なく彼に言った一言で…。

「高校中退の奴なんかとは、娘は結婚させない」って、お父さんが言って
いた…。と、彼女の妹はうっかり彼に言ってしまったのだ。

彼女は、妹がそんなことを彼に言ったなんてことは全く知らない。それから
彼は彼女を避けるようになり、しばらくして東京に行った。彼は、妹から
言われたことは、決して彼女に言わなかった。おそらく、私のような友人
に、酒を飲んだ時に話しただけだろう。

何も知らなかった彼女も、きっとかなり落ち込んだのだと思う。しばらく
して他の男性との結婚を決めた、ということを風の便りで聞いた。それは
それで幸せになったのだろうから、ハッピーなことだ。

彼のその後は知らない。どうなったのだろうか?彼女が亡くなったこと
さえきっと知らないのだろう。ひょっとしたら日本にもいないのかも
しれない。

彼女の訃報を昔の友人から聞いた時、封印されたあの話を思い出した。
知らなかったのだから、知らないままでよかった。そうに違いない、と
思うことにした。

若い頃にはいろいろあるさ。ね、誰にだって…。