人生とのお別れ8
身体はすっかり思うように動かなくなっていた。
夜も眠れないから、いつも疲れていた。
実は自分で驚くほどずいぶん長く生きていた。
年齢は60歳をとうに超え、68歳になっていた。
そして最近とみに若い頃のことをよく思い出す。
あいつはどうしているんだろう?
とか。
あの街はどうなっているんだろう?
とか。
そんなことだ。
若い頃はジャズとロックに溺れて、酒やその周り。
あるいはその先にあるものとかをやっていた。
けれどももう身体の方が受け付けなくなってきた。
だから。
必然的に俗に言う健康的な毎日、とやらになっていた。
目を閉じる。
いろんな奴の顔と声が浮かんでくる。
宗教に狂っちまったあいつは、あっという間に死んだ。
反社から金を借りて事業につぎ込んでいたあいつも死んだ。
なんだよ、みんなどんどん死んでいくじゃないか。
て、ことは俺もそろそろか。
なんて思っていても現実には俺はまだ生きている。
さ、何とか起きて何か食べに行くか。
身体を起こして部屋を見渡した。
金にあかして買ったバカ高い家具がごろごろしている。
クルマは一体何台持っているんだろう?
そう、確か8台くらいか…。
イタリアやドイツやイギリスのクルマ。
ほとんどが古いクルマだが、それは趣味だからだ。
金なんて。
むちゃくちゃいっぱい持っている。
数百億はあるとは思うが正直知らない。
興味が無いからだ。
今、俺が住んでいる家もかなりデカい。
そんな家にたったひとりで暮らしている。
家政婦が3人いて、いろいろやってくれるから困らない。
何十年か前、俺は酔っ払った女をおぶって街を歩いていた。
しかも同じ女を二度も!
いちど目はまだ十代の頃だ。
もういちどは25の時だ。
そんなことも遠い思い出だが、妙によく思い出す。
あいつとは本当に若い頃に出会って、数年付き合った。
それから、また何年後かに偶然会った。
あいつはしらばっくれていたが分からないはずがない。
俺の店でベロベロになったあいつをおぶってやった。
タクシーに乗せればいいのだが、あえておぶったまま歩いた。
しかもナオミとは気づかないふりをしてだ。
「お客さん、家はどこなんですか?」なんて。
よろよろ繁華街をおぶったまま歩いた。
「そこでいいよ!」
いきなりナオミが飛び降りた。
「バイバイ、サンキュー」
俺はそのまま何も言わずにナオミに背中を向けた。
その背中に向かって「何者かになれよ!」とナオミが言った。
何だ?「何者」って…?よくわかんないな。
それがあいつ、つまりナオミとの正真正銘の最後になった。
それから俺はミュージックバー以外に不動産屋も始めた。
もともとそういうことには鼻が利いたから、商売は頗る
うまくいった。
いつの間にか数百億もの金を手にすることになった。
30代から50代まで、とにかく必死に働いたから。
リスクの高いギャンブルに勝ったようなものだ。
その間に何人もの女と付き合ったが、面白くなかった。
やるとすぐにその女が厭になった。
女を追い出し高級ホテルの窓から夜景を眺めながら泣いた。
悲しかったからではない。
自分が「何者」にもなれないことに苛立っていたからだ。
ナオミの言った「何者」とは何なんだ?
おれは永遠にその答えを探し続けるのか?
そんなことを続けるうち、俺は60代後半になっていた。
とうとうどの女とも所帯を持つことはなかった。
それでも十分にハッピーだった。
だから。
そろそろこの世とおさらばすることも悪くない。
そう思うようになってきた。
けしてそれは逃げたくなったからではない。
毎日がさほど面白おかしくなくなってきたからだ。
今まではとにかく酒を飲んで女を抱いてかっこつけて
過ごしていればよかったんだが。
どうやらそれにも完全に飽きた。
決心したら、不思議と心が安らかになってきた。
鏡を見ると俺は優しく微笑んでいた。