【短編】幸福を展示する美術館(2)
いきなり現れたひげ面の男性に話しかけられて女性はひどく
狼狽した。
誰とも話などしたくなかったから…。
福安はそんな女性の狼狽には全くお構いなしで話し続ける。
「今日はいいお天気でしたか?」
ここで女性の名前も明らかにしておこう。
名前は、鈴木 美奈子。
いたって普通の名前だが、彼女はもうこの名前のまま30年間
過ごしている。
落ち込んでいる理由はこれから福安が聞き出すはずなので、
ここでは触れない。
「お天気、知らないんですか?」
美奈子は呆れながら福安に尋ねた。
「そうなのです!ずっと地下室にいるので天候がさっぱり
分からないのです!」
そんな人が本当にいるのだろうか?
訝しく思いながらも答えないわけにはいかないと思い口を開いた。
「大雨ですよ」
福安はすぐにそれが嘘だと気がついた。
傘も持っていないし濡れてもいない。
そしてその女性が明らかに自分を小馬鹿にしているような表情を
したのが見て取れたからだ。
「そうですか、それは大変でしたね」
美奈子をじっと見ながら、わざとらしく首を上から下まで大げさに
振って、福安は答えた。
雨の一滴さえ感じられない靴で首の動きを止めてから、くるりと
背中を向け、首だけをひねって福安は言った。
「どうぞ、展示をご覧ください」
美奈子は内心忌々しい気持ちでいた。
ひとりになりたくて、あえてほとんど来館者のいない美術館を選んで
やって来たのに、なぜ得体の知れない男に案内されなくては
いけないのか…。
しかも分かりやすい嘘までもつき、自分がいかに好ましくない
人間であるかを訴えたはずなのに…。
この男は相当に鈍感らしい。
「私は、ひとりで…」
と美奈子は言いかけたが、その言葉に被せるように福安は話し
かけてきた。
「ここに展示してある絵画は、人間の内面を抽象的に描いたもの
ばかりです」
順路というものがあるのかどうか、福安に導かれるままに部屋を
進んだ。
最初の絵は小さな花器にまったく合わない異常に大きな深紅の
花が生けてある絵だった。
深紅の花は別珍のように光を吸い込んでしまうような色合いで、
艶めかしく花びらを開いている。
まるで巨大な食虫植物のようだ。
美奈子は首筋が冷たくなるような気持ちになった。
いちいち絵画に描かれたものの意味を掘り下げていては大変だから、
あえて考えないよう努めながら美奈子は絵画を見ていった。
福安は相変わらず自分の横にぴたりとついていて、どうにも立ち去る
気配はない。
饒舌に絵画の説明をするわけでもなく、ただ一緒になって見ている
だけだ。
時折腕を組んだり、小さなため息のような声を発したり、この男が
どういう理由で傍らにいるのか不明のまま時間は過ぎていった。
美奈子には到底理解できないような、ある意味グロテスクな絵画
ばかりを見ているうちに1時間ほど経ってしまった。
悲しい気持ちでここに来たのに、こんどは得も言われぬ嫌なぬめり
が身体を包んでしまったように感じた。
「最悪だなぁ…」
本当にかすかな声でひとり言を言ったら、すかさず福安が返事をした。
「何かあったのですか?私でよければお話しをうかがいますよ」
不意を突かれた美奈子は思わず言ってしまった。
「はい、ぜひ聞いてください」
福安は極上の笑顔を浮かべていた。
「では、お茶をご用意しますので、私の部屋にお越しください」
促されるまま、美奈子はらせん階段に続く扉の前まで歩いた。
さきほど感じたぬめりが一瞬強くなった。
剛毛がびっしり生えた汗だく男の手が、自分の太ももをつかんでいる、
そんな絵が頭に浮かんだ。