【短編】幸福を展示する美術館(3)
らせん階段は留置場の柵のような鉄製の手すりと鉄板の踏み板とで
できていた。
降りていくうちに軽く目眩がするように感じた。
階下に着いた。
思ったより広々としていたが、照明がずいぶん暗くてあまり
よく見えない。
時折、水が流れるような音がする。
「あ、その音ですか?それは下水の音です」
「下水、ま、トイレを誰かが使って水を流すとその音がする
わけです」
美奈子が周りを見渡すと、確かに筒状になった太めの管が壁沿いに
2〜3本並んでいた。
見るわけでもなく乱雑に積まれた本を眺めていたが、湿った皮の
匂いがきつくて、本を手にしたいとは思わなかった。
とにかく古めかしい洋書だということだけは分かった。
福安がコーヒーを用意し始めた。
ミルを使ってコーヒー豆を挽き始めると何だか気持ちが落ち着いて
きた。
コーヒーの香りは、迂闊にもこんな部屋に来てしまったことを
を忘れさせてくれた。
「さぁ、お飲みください」
福安がいかにも味には自信がある、といった顔つきで言った。
「ありがとうございます」
礼を言ってから、温かいその液体を口に注いだ。
「実はあなたが暗い顔をされていたので、気になってしまって」
髭の中から妙に赤い唇が動いてそう発音した。
温かい飲み物のおかげか、美奈子は自分のことを少し話す気に
なった。
「わたし、頭がおかしいんです」
いきなりの告白に福安は思わず笑ってしまった。
「ほう!頭がですか?」
「そうなんです」
「例えば地下鉄が駅に入ってくると、ホームから転落する自分を
想像してしまうんです」
「高いビルに昇ると、屋上から地上に落ちていく自分を想像して
しまって怖くなるんです」
福安はにこにこしながら聞いていた。
「でも、それは今の悲しみとは別の話ですよね?」
福安の言い方に美奈子は少し腹が立った。
「そうかもしれません」
自分は今、少し怒っているということを、この遠慮の無い髭面に
分からせるためにあえてきつい口調で美奈子は答えた。
「当館は、来館者の悲しみや苦しみを受け止めるべく、ある団体
によって建てられました」
そんなことはどうでもいいのに…。
美奈子はもう帰りたくなっている自分に気がついていた。
「わたし、用を思い出しました!帰ります」
福安の表情が変わった。
「そうはいきません」
「地下のこの部屋に来たからには、悲しみの訳を話していただか
なければならないのです」
分厚いノートを書棚から取り出して福安が言った。
「このノートに、あなたの悲しみを綴らなくていけない」
「それこそが私の重要な仕事ですから」
椅子から立ち上がろうとした美奈子の肩を押さえながら福安は
わざとらしく笑った。
仕方が無い…。
嘘でもいいから適当なことを言ってここから逃れよう。
そもそも美奈子は「嘘」が大好きだった。
福安に今日の天気を尋ねられた時にも嘘をついた。
尤も福安は、今日が雨だろうが晴れだろうがどちらでもよかった
だろうが。
「さて、あなたの悲しみ、教えてくださいな」
猫なで声で福安に促された美奈子は、どんな嘘にしようかを懸命に
考えていた。
そうだ!こんな話にしよう!
「わたしの悲しみは、大切な人を失ってしまったことによるものです」
「やっぱり!」
福安はうれしそうだ。
人の悲しみや不幸を聞くことがこの男の役目であり、喜びでもあるのだ。
だから目がキラキラしているのか…。
大切な人を失ったなんていうのは大嘘だが、うまく辻褄を合わせてこの
男を納得させて帰ろう。
すっかり冷めてしまったコーヒーをすすり、美奈子は話を続けた。